出だし途中から
昭和44年03月08日 夜の御理解
(途中から)
ある方が、おかげを頂いてまいりますと、いかにも自分の働きというものが、できるから、こうしておかげをいただくというような思い方が、思いが、こう、起きて、自然に起きてくる、こういうもう本当にあの、慢心をしちゃあならん、もういつも先生から言われるように、実れば実るほど、おかげを頂きゃあ頂くほど、頭の下がる稲穂のようであらなきゃあならんと、こう自分で心の中にそれを思うておりますけれども。
やはりその慢心がちょこちょこと頭を出すと、まあその事に非常に心しておると言った様な意味の事を話しておりましたが、本当にあのおかげを頂く人たちは、そりゃ出来ておる出来ていないは別としてですね。そういう事を自分の心にこう守りのように頂いておるという事がね、なら愈々おかげを頂く基だと私は思うんですよね。今日もあの、ある方が、それこそある方が、ある方のお知らせを頂いてるんですよね。
してここで、もう本当にここでも実意丁寧の鏡のように言われる方なんですけれども、その人がその、頭が薄うなっておられるところを頂いたというわけなんですね。ところがその人が下の方にあごひげをこうやって生やしておられるところだったと。もう本当にそれを、聞き、聞かせて頂いてからですたい、本当にあのう、人間ちゃあ分からんと思うです。自分でも分からんが、側におる者でも分からない。ね。
いかにも本当にあの何て言うですか生まれつき、いわば実意なタイプの人がありますよね。おとなしい人があります。ですからどこに慢心がと思うけれども、神様からご覧になると、頭の髪の毛が薄うなっとるということは、神が薄うなり、信心が薄うなったという事であり。髭というのはこりゃあ慢心ですね。いつも私が頂くように、髭をたてるのは慢心というお知らせと私は皆さんにきいて頂く、いつの間にかこの、あご髭がこうやって伸びよるとこう言う。ね、
その誰が見ても本当に、実意丁寧な、慢心でも起こしなさる様な、人じゃあないのだけれども、そういうお知らせを頂いた。しかしそれば、私聞かして頂いてからです、ほうそうちね、って言ってまあ話したことです。本にそげん言やあ、思い当たらん節がないでもないというんです。そりゃあやはり、時々本に、あらっと思うようなことが、やっぱりあるという事です。
ですからねこりゃもうお互い一つあの、慢心を慎ましてもらわなきゃならんが、私はここにこうは貼ってありますのはね、もうこれも一つ正義さんいやないけど心の守りのようにこれを2枚書いてから、久保山さんに一枚私が一枚ここに、書いてここに張ってるんです。思い上がるな慢心するな、驕る心はおかげの破滅とこういう。思い上がるな慢心するな、驕る心は思い上がるな慢心するな、驕る心はおかげが破滅。
折角頂いとるおかげが破滅になるということ。それでこうして思ってしておってもやはり、そのう、どこのスキにかちらっちらっと慢心が動く。特に私共御取次者としての御用いただいておる者は、とりわけその、心しときませんとね、親先生、おかげで助かりました。まるきり私しの、信心で私しが取次いで助かったように、チョットと、思うんですね。久富先生じゃないけれども、もう私はもうどんな場合にでも。
親先生とおすがりして、もう例えば親先生のおかげで、お取次させてもらいおると思うとるとこういうようなら、もう間違いないです。それをその私が出て、私がお取次ぎして、はあ良かお取次ぎができたように思うて、私がこうやって言うたらこげなおかげ頂きなさったというような事になってくると、もうそこの御結界には生きた働きがだんだん無くなって参ります。
ですからもうこれは、例えばなら私共でもそうです。私がここで御霊様の御祈念が、○○の方達ちゃたまがるじゃろうと思うんですけれども、御霊様で私ぐらいゆっくり御祈念する者はありますまい、いつでも。もう4時の御祈念なんかでも朝の御祈念なんかでも、4時の御祈念なんか特に私は、もうそれこそ長い長い御祈念をさせてもらいます。神様にお願いしとるとじゃけん、御霊様にそげんせんでよかろうごたる。
けども私の心の中にはですね、もう私の働きとか力とかっていうようなもんがあると思ってないからです、私の初代、私の、師匠、またはその師匠、またはその師匠達の信心の徳という。そういう徳の流れがあるからこそ、ここではおかげ頂いとるのですから、もうその、先代の御霊達に、私はおすがりしなければおられないという気持ちが、ま、御霊様に対するあの御祈念が長くなるわけなんです。ね、
それでいても、やはり、どこのはしからか慢心が出てくる。とにかくま私のそのある方が頂い、ある方がある方のお知らせを頂いておるように、いつの間にか頭が、髪の毛が薄、神が薄うなる、信心が薄うなる。そしてその生えちゃあならんところに髭がこうやってたって、いかにも俺は偉かっぞといったような事になってくると、私はやはりおかげが受けられんなあ、おかげを落とすなあとこう思うのです。
ね、そこで私たちがここで思う事はですね、自分というものはやっぱりいつもこう見極める心が大事だと思う。ね、で、そこから起こってくるものはどういう物でなからなければならんかというと、これほどの例えばおかげを頂いておるのに信心もでけんのに相済まん事であるというかね、三代金光様が、ね、御礼の足りない、お詫びばかりを致しておりますと仰るその、私の心から芯から、心からお詫びをする心がある時なら、まあ、まあ、私は、あの大事無いと思うですね。
お詫びをしておる時に上を向いてお詫びする者はおりませんものね。下へ下へこうやっぱお詫び、「相済みません、」そういう時、だから、そういうお詫びの心といったような物が、心の底にいつもある時なら、私は慢心せんですむ、いう、髭たてるような事はと思うですね。一つ、実れば実るほど、なるほど、かがむ稲穂のようでありたいと思います。 どうぞ。